峠の歴史




序章 徳本峠からの穂高岳の展望は、日本百名山の著者、深田久弥によると「日本山岳景観の最高のもの」とある。 

徳本は「とくごう」と読む。 その名前の由来は多くの説がある。 峠を越えた上高地の一角に徳吾の小屋があったことから、ここへ至る峠という意味。徳本上人がこの峠を越え峠路の開発にあたったという説。徳川将軍吉宗の付き医者に徳本(とくもと)という人がいた。吉宗が病気になったとき、彼がこの峠へきて薬草を集め、それを将軍に献じたことから「徳本」の字が当てられたという話など。 徳本峠の文字が正式に地図に記載されたのは大正になってからのようだ。 島々において峠はひとつしかなかったため単に峠と記されていた。 それ以前において「とくごう」とは徳郷のことであり現在の明神館のあたりに徳郷の小屋が何軒かあったようだ。 徳本峠遊歩道は梓川の支流・島々谷と上高地との間を結ぶ。 近代登山が始まると上高地を紹介し、「日本アルプス」の名を広めた、かのW・ウェストンや、日本山岳会を結成した小島烏水、志賀重昂などの登山家もこの峠を越えている。 梓川沿いに上高地へ道路が開通したのは、1933年(昭和8年)になってからのことだ。バス路線が開通すると、それまでの登山道が廃れることが少なくないが、島々谷の道は、梓川沿いの道路開通後も廃れることはなかった。それは、峠を愛する人々による支援と、深田久弥が「峠に立った時、不意にまなかいに現れる穂高の気高い岩峰群は、日本の山岳景観の最高のものとされていた。その不意打ちにおどろかない人はいなかった」(「日本百名山」)と書き記しているその景観にある。

江戸時代初期、寛文年代(1661年から72年)より島々から徳本峠越えの道は木材資源の伐採や炭焼きなどの仕事場として生活をささえたルートだった。 また、亜高山帯特有の薬草をもとめる人々も歩いていた。 それら薬草採りに携わった人々が300年以上前に小屋掛けしたのが徳本峠小屋の前身だといわれている。 いまの小屋の以前にも峠の小屋があったようだ。


明治26年(1893年) の夏、ウェストンは島々谷のガイド・嘉門次を引き連れ、徳本峠を越えて穂高に登った。彼はそのときの様子を「日本アルプスの登山と探検」に次のように書き記している。
 「徳本峠に向かう険しいつづら折りの登りは、如何な終わりそうにない。午後はひどい暑さで、左右に迫る笹藪には、そよとの葉ずれの音も起こらなかった。峠の峰に着くと木陰に身を投げ出して、奮闘の末にかちえた快いヒルネ(昼寝)(シェスタ)の夢をむさぼった」(岩波文庫、青木枝朗訳)。ウエストンはのべ11回ほど徳本峠を往復している。
 

明治27年(1894年) 志賀重昂が「日本風景論」を出版しベストセラーとなる。 志賀重昂もまたこの峠を越えている。
世界的な地理学者として知られる志賀重昂は, 日本の伝統美 (山水)を自然科学によって解明した「日本風景論」はベストセラーとなった。 「世界を旅して26万マイル」と称えられた重昂は,日本人の景観意識を一変させるとともに,日本の近代登山の先駆けにもなっている。また,国内においても,「日本ライン」「恵那峡」など,重昂が命名した名勝も数多く残り,日本の風土のよさを発見しようとした彼の姿勢を物語っている。


明治38年(1905年) 日本山岳会は,英国人の宣教師W・ウェストンと重昂らの示唆により,1905年(明治38)に小島鳥水らにより設立されている。 映画「劔岳 点の記」で浅野忠信演じる柴崎芳太郎のライバルとして仲村トオル演じる小島鳥水(うすい)は登山家として映画に登場し、小島鳥水の名は再度人々に知られることになった。 鳥水もまたこの徳本峠を訪れている。
 小島鳥水は、1894 年(明治27)に刊行された志賀重昂の「日本風景論)に感化され,経典のように反復熟読したようだ。1899年(明治32)浅間山登山を皮切りに2000m級の山岳地を跋渉し,1903 年(明治36)には「鑓ケ嶽探検記」を青年文学雑誌『文庫』に連載して当時流行し始めた登山熱を高揚させた。
槍が岳の初登頂は越中生まれの念仏僧播隆上人で文政11年(1828)7月28日。阿弥陀如来、観世音菩薩、文殊菩薩の三尊を安置したとされている。そして明治11年(1878)日本アルプスの命名者W.ガウランド(英)が登頂し、そのあと、かのW.ウェストンが明治25年に登頂している。日本の登山家としては明治35年(1902)の小島鳥水が最初といわれている。 烏水らは,槍ケ岳登山を切っ掛けにウェストンに会う機会ができた。その辺の経緯は「アルピニストの手記」中の「ウェストンをめぐりて」に詳述されている。ウェストンが烏水らと同じ横浜に在住していたこともその親交を深める一因となっていた。さらに,ウェストン、志賀重昂の助言なども影響して,いよいよ日本山岳会の創設に向けて始動することになる。1905年(明治38)10月に東京飯田橋の富士見楼にて日本山岳会が結成される。創立メンバーは,小島烏水をはじめ高野鷹蔵,武田久吉,梅沢親光,河田黙,城数馬,高頭仁兵衛の7 名だった。これ以降,烏水は,機関紙『山岳』(年3冊)の発行,講演会,山岳図書など多忙を極めることになった)。


大正2年(1913年)、智恵子は高村光太郎と峠を越え、ウェストンと交流をもった。 以下、文献資料からの引用によって足跡をたどってみる。
1913年、絵の道具を抱えた27歳の智恵子は北アルプスの上高地に向かった。ひと月前から白骨温泉を巡り上高地に来ていた光太郎は、智恵子を上高地から峠をこえて迎えに出かけた。
九月に入つてから、彼女が画の道具を持つて私を訪ねてきた。その知らせをうけた日、私は徳本峠を越えて岩魚止まで迎へに行つた。彼女は案内者に荷物を任せて身軽に登つてきた。山の人もその健脚に驚いてゐた。
1913年9月上旬、松本駅から「ガラガラ馬車」に乗った独りぼっちの智恵子は、島々宿で一泊した後、翌朝、島々谷の沢沿いの平坦な山道を巡り、岩魚止へ向った。 同じ年に徳本峠を通ったW・ウェストンは、こう書いている。 
徳本峠(2166m)を越える道は、昔なじみの道であるが、過去20年間にその状態は大きく改善され、外見は新しくなっていた。しかし、幸いなことに、ロマンティックなゴルジュの美しさは少しも衰えていなかった。
加藤惣吉の「清水屋」に、光太郎と智恵子も宿をとっている。 1913年8月、ウェストンは槍ヶ岳・霞沢岳・奥穂高岳などに登るため、3週間、上高地に滞在した。8月初めから上高地にいた光太郎は、ウェストンとも知り合いになっていた。
付近で絵を書いていた数人の画家たちが<展覧会の内見>に招待してくれ、帰りには、彼らが描いた魅力的な作品若干をお土産としてもらった。(P.243)「日本アルプス再訪」
また、そのころの上高地周辺は馬と牛が放牧されていた。
ウェストンから彼女の事を妹さんか、夫人かと問はれた。友達ですと答えたら苦笑してゐた。 光太郎と茨木氏たちが飲んで騒ぎ過ぎ、隣室のウェストンから叱られたエピソードも残っている。 智恵子の上高地滞在は1ヶ月に及ぶ。 梓川の河辺の道はすべて智恵子の歩いた道で、目の前に穂高の山が広がる木陰の根かたは、智恵子が絵を描いたところだ。 のちに、二人は山道に立つ同じ木のことをそれぞれで書いている。
絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波打つ深山の桂の木。(智恵子)
十月一日に一山挙つて島々へ下りた。徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた。(光太郎)

岩魚留小屋の桂の大木

桂の木とは、岩魚留小屋付近の桂の大木のことと思われる。いまでもその姿は変わることなく見ることができる。
1932年の自殺未遂の時、智恵子はその遺書の中に、楽しかった上高地の思い出を書いた。


大正9年(1920年)に芥川龍之介は「槍ヶ岳紀行」を発表。
 島々と云ふ町の宿屋へ着いたのは、午過ぎ――もう夕方に近い頃であつた。宿屋の上り框には、三十格好の浴衣の男が、青竹の笛を鳴らしてゐた。
 私はその癇高い音を聞きながら、埃にまみれた草鞋の紐を解いた。・・・(中略)
路は次第に険しくなつた。が、馬が通ると見えて、馬糞が所々に落ちてゐた。さうしてその上には、蛇の目蝶が、渋色の翅を合せた儘、何羽もぎつしり止まつてゐた。
「これが徳本の峠です」
 案内者は私を顧みて云つた。
 私は小さな雑嚢の外に、何も荷物のない体であつた。が、彼は食器や食糧の外にも、私の毛布や外套などをく肩に背負つてゐた。それにも関らず峠へかかると、彼と私の間の距離は、だんだん遠く隔たり始めた。


大正12年(1923年)に現在の徳本峠小屋は営業小屋として営業されるようになった。 この営業によって当時の登山者は大いに便宜がはかられた。
大正後期には上高地は大きくその様相を変えることとなった。上高地には湯治客や登山客を受け入れる体制が各地で整えられて穂高や槍の稜線にも山小屋が開設された。


写真はイメージです。

昭和2年(1927年)に上高地は「日本新八景」で景勝渓谷の第一位に選出されて一躍脚光を浴びることになり、徳本峠小屋はメインルートとして多くの人に歩き継がれた。


写真はイメージです。

昭和3年(1928年)に発刊された『日本北アルプス案内』(南安日本アルプス休泊所組合、1928年)の巻末に掲載されている徳本峠小屋の広告。 この広告から、当時の徳本峠小屋は、「徳本峠頂上小屋」と言っていたようだ。 また、当時としては時代の先端をいく飲食品(徳本峠名物のミツ豆やコーヒー、サイダー、カルピスなど)を多くの登山者に提供していたことがわかる。


昭和8年(1933年)中の湯からのバス路線が上高地まで延長されて、多くの人がバスを利用するようになった。 その影響もあり峠越えの道は歩く人が少なくなったようだ。 その後も多くの峠の宿を愛する人々に支えられて峠の宿は営業がつづけられた。


写真はイメージです。

平成21年(2010年)、これまで老朽化が進む建物を補修しながら営業を続けてきたが、登山者の安全面を考慮して保存のための改修がされた。 そして新たな宿泊施設として新館が新築され現在にいたる。